上級編 5.  マルコフ汎関数モデル 

5.1   はじめに

5.1.2   ニュメレールと同値マルチンゲール測度

マルコフ汎関数モデル(以下”MFM”)の説明に入る前に、このアプローチを理解する上で不可欠な、ニュメレールと同値マルチンゲール測度について、再確認したいと思います。この概念については、“資産価格付けの基本定理”の所で、ある程度直観でも理解できるような説明を試みました。しかし、ここで改めて、簡単に解説したいと思います。 

 

< ニュメレールとの相対価格の期待値がマルチンゲールになるとは? >

まず、MFMで重要になる概念は 

「ある資産価格のニュメレールとの相対価格の期待値は、そのニュメレールに対応する測度で計測すると、マルチンゲールになる」 

というものです。それを数式で示すと、下記のようになります。 

\[ \frac{X(t)}{N(t)} = E^{Q_N} \left[ \frac{X(T)}{N(T)} \rvert \scr {F}_t \right],~~~~ t< T \tag{5.1} \]

但し、t 時における、特定の金融資産の価格を \(X(t)\)、ニュメレールの価格を \(N(t)\)、そのニュメレールを基準とした確率測度を \(Q_N\) とし、その期待値演算を\( E^{Q_N } (~)\) とします。 

ここで、“相対価格(ニュメレールで基準化された価格)”と、“ニュメレールに対応する測度”とは何でしょうか? \(X(T)\) の価格を \(N(T)\) で割った値を、市場で観測しても、上式のような関係は成立しません。上の式が成立するためには、\(X\) の期待リターンが\(N\) の期待リターンと一致する必要があります。数式で表すと、\( \frac{E(X(T))}{X(t)}=\frac{E(N(T))}{N(t)}\) でなければなりません。しかし、\(X\)の期待値演算を、\(X\)の自然な確率測度で行っても、絶対にこうはなりません。さらに、ニュメレールは、価格が常に正である金融商品であれば何でもかまわないので、\(X\) の期待リターンが、ニュメレールの期待リターンに一致するとは、様々なニュメレールに対応する確率測度で、常に上の等式が成立している必要があります。これを、どのように理解すればいいのでしょうか?  

ここで、X(t)の確率過程が、自然な確率測度の下で、下記式で表せるとします。 

\[ dX(t)=μ_X (t)dt+σ_X (t)dW(t) \]

この式のドリフト項\(\mu_x (t)\) には、自然な確率測度の下では、一般的にはリスクプレミアムが含まれています。一方ニュメレールも、価格が常に正となる金融資産であれば、何でもかまわないので、ニュメレールとして、価格変動リスクのあるもの(例えば、満期 T のゼロクーポン債)を選べば、その拡散過程におけるドリフト項は、リスクプレミアムが含まれたものになるでしょう。両者のドリフト項(すなわち、一定期間後の期待リターン)が一致するのは、偶然そうなる事はあるかもしれませんが、常に一致する事はありませせん。従って、単に価格を割り算するだけでは、5.1式は成立しません。 

5.1式の意味は、次のように誤解して解釈されがちです。5.1式が成立するには“リスク中立測度の存在”(Arbitrage Free と同値)という条件が付くので、リスク中立な市場参加者の裁定行動により、「X と N のドリフト項が、リスクプレミアムを含んだものから、リスクフリー金利相当のドリフトに徐々に均衡していく」という意味で理解してしまいそうです。 リスク中立測度”という用語が誤解を招きやすく、私自身、一時そのように考えましたが、そうではありません。市場参加者の裁定行動が、X の自然な確率測度に全く影響を与える事なく、5.1式が成立するのです。 

(注: CAPM の世界では、市場参加者は、基本的に Risk Averse(リスク回避的)であり、同じ期待リターンをもたらす商品なら、リスクの小さい方を選好するという仮定にたっています。しかし、もし市場参加者がすべて Risk Neutral(リスク中立的)なら、彼らはリスク量(Volatility の大小)にかかわらずリターンの高い商品を選好し買い上げます。また、期待リターンの低い商品は忌避され売却します。そうすると、市場参加者が全員リスク中立であれば、期待リターンの高い商品の価格が上昇し、期待リターンの低い商品の価格は低下し、最終的にすべての金融商品の期待ターンが、リスクフリー金利で均衡する事になります。そのような事は、実際の市場を見れば起こるはずもなく、CAPM では排除されています。) 

 

< X のリスクを完全に消せる取引戦略の存在の仮定 >

ここで、X のリスクを完全にヘッジできる取引戦略が存在すると仮定します。もしそうなら、X と、そのリスクを完全にヘッジした取引戦略を組み合わせて、リスクがゼロのポートフォリオを組む事が出来ます。リスクがゼロであれば、市場参加者のアービトラージ取引により、そのリターンはリスクフリー金利のリターンに収束していくはずです。これは市場参加者が Risk Averse(リスク回避者)と仮定する CAPM 下でも成立します。アービトラージ取引による価格の収束は、均衡点を求めながら徐々に収束するのではなく、瞬時に起こります。収束して、もうアービトラージの機会が無くなった状態が Arbitrage Free(一般には“無裁定”と訳されていますが、“アービトラージ機会不存在”と訳した方が、意味が解りやすいと思います)になります。 

さらに、そのリスクフリーのポジションに、あるニュメレールを選択して、それと全く同じ動きをする取引戦略を加えれば、全体のポジションは、ニュメレールと全く同じ動きをする事になります。すると、全体のポジションの期待リターンは、市場参加者のアービトラージ取引により、ニュメレールの期待リターンに収束していくはずです。 

5.1 式の、“X とニュメレールの相対価格がマルチンゲール”になるという式は、X 単独の期待リターンではなく、私自身は、次のように理解しています。 

「X のリスクを完全にヘッジしてニュメレールと同じ価格変動をする取引戦略を組めば、取引戦略全体の期待リターンが、ニュメレールの期待リターンに収束する」 

その場合でもX単独でみれば、自然な確率測度の下で、ランダムに動いています。ニュメレールや同値マルチンゲール測度について解説した文献で、このような説明をしているのが見当たりません。もしかしたら、数学的にはもっと違った意味付けができるのかもしれませんが、金融市場におけるアービトラージ取引をもとに理解しようとすれば、こういう風に理解する以外ないと思います。 

この状態を簡単にイメージできるのが、X を、ある証券のフォワード取引とし、そのリスクを、同じ証券のスポット取引でヘッジした状態です。特定の証券の、特定の将来時点での買いポジションを、現時点で、同じ証券の売りポジションでヘッジすれば、リスクは完全に相殺され、全体としてレポ取引(現先取引)と同じになります。従って、全体のポジションのリターンは、その期間のレポ金利に収束します(レポ金利は、一般的にリスクフリー金利と見做されています)。また、X がオプションの場合は、デルタヘッジ戦略により、リスクを(理論上は完全に)消すことが可能です。(基礎編“オプションのデルタヘッジ戦略”、上級編“資産価格付けの基本定理”を参照)。この場合も、全体のポジションのリターンは、リスクフリーなので、リスクフリー金利に収束するはずです。Black-Scholes モデルは、この考え方がベースになっています。 

その時の X の現在価値と、ヘッジする取引戦略の現在価値は、プラスマイナスを変えれば一致します。X がフォワード取引であれば、その現在価値は、それをヘッジする反対売買の価値、すなわち対象資産の現在の市場価格と一致します。その状態でも、X の価格は自然な確率測度に従って変動しているはずですが、ポジション全体としてみれば、価値が変動していないように見えます。 

この時、X の動きだけを見れば確率変動しているので、X の現在価値を期待値演算で計算する事も可能です。その場合、ドリフト \(μ_X (t)\) をニュメレールのドリフトにずらした確率測度(数学的に不正確な表現ですみません)を使って期待値を計算すれば、ヘッジ取引戦略の現在価値(Xがフォワード取引であれば、対象資産の現在の市場価格)と一致します。 

\[ 対象資産の市場価格~=X(t)=E^{Q_N} \left[X(T)\right] \]

“同値なマルチンゲール測度が存在する”とは、この等式が成立するような確率測度 \(Q_N\) が存在するという意味です。同値な確率測度が“存在する”という表現がなかなか解りにくいですが、\(X(t)\) の値と \(X(T)\) の値がわかっている場合(マルチンゲールであれば一致するので、片方が判ればもう片方も判ります)に、上式の右辺の”期待値演算の逆関数として求まる確率測度が存在する”と解釈すればいいでしょう。そして、この確率測度は、\(X(T)\) のリスクが完全にヘッジされた場合にのみ考え得る測度である点を強調しておきます。 

 

< ランニングマシンの例 >

以上の事を、直観でイメージできる別の例を使って説明してみます。すでに“資産価格付けの基本定理”の所で、スポーツジムで見かけるランニングマシン(Treadmill)の例を使いましたが、ここでもその例を使ってみます。 

ランニングマシン上を走っている人は、一定速度で前に進んでいますが、その横に立っている人から見れば、動いていないように見えます。仮に、非常に優秀なランニングマシンがあって、その上にランダムに動く動物を乗せます。そのマシンは、動物の動きをセンサーでキャッチし、その動きと全く逆方向にベルトを瞬時に動かして、動物を絶対に落とさないように出来るとします。ランダムに動く動物が確率変数で、ランニングマシンが、リスクを完全に消す取引戦略になります。すると、ランニングマシンの横に立っている人からすれば、上に乗っている動物は、止まっているように見えるはずです。 

しかし、その動物自体は、ランダム動いています。もしその動物をランニングマシンから降ろし自由にさせると、一定時間後の動物の位置を特定するのは困難です。動物の習性を毎日観察し、その行動パターンがある程度判れば、大体の場所は判るかも知れませんが、それを完全に特定する事は困難です。特に、自然な確率測度では、どの方向にどの程度移動するか、すなわちドリフトを特定するのが困難です。まさに金融商品の価格を予想するのと同じです。しかし、優秀なランニングマシンの上に乗せていれば、横に立っている人から見て、動物の位置は常に同じ場所にいる事になり、相対位置が特定できます。

さらに、その動物が乗ったランニングマシンを大きなトラックに乗せて、地点 A から 10㎞ 東に離れた地点 B に、時速 10㎞ で運ぶとします。1時間後、トラックに乗っている人も、ランニングマシン上の動物も、同じ B 地点にいます。この場合、トラックがニュメレールに該当します。トラックが、絶対に故障せず、事故にもあわず、渋滞にもあわず、確実に時速 10km で移動できるのであれば、それをリスクフリーなニュメレールと見做す事ができるでしょう。そうすると、特定の時間における動物の位置は、ニュメレールの相対位置から、完全に特定できる事になります。現在の位置が判れば、1 時間後の位置が正確に推定できるし、逆に 1 時間後にいる地点が判っていれば、そこから現在の位置も判ります。ただし、あくまでも、その動物を優秀なランニングマシンに乗せ、さらにそれをトラックに乗せた場合にのみ言える事です。5.1 式が、意味しているのは、このような事だと理解すればいいでしょう。 

この時、動物自体は、ランニングマシンの上でもランダムにうろついているので、その居場所を期待値演算で求める事も可能です。その場合、動物のランダムな動きを、自然なドリフト項と拡散項で表現できるとした場合、そのドリフト項をトラックのドリフト(すなわち進行方向と速度)と同じにすれば、期待値演算で求めた 1 時間後の位置も、地点 B になります。その確率測度が、同値マルチンゲール測度になります。すなわちそれは、自然な確率測度のドリフト項(その値を時間t積分すると、一定期間後の平均値になります)を、ニュメレールのそれに合わせたものと理解すればいいでしょう。 

相対価格を特定する為のニュメレールとしては、価格が 0 にならない金融資産であれば、何でも構いません。但し、確率変数 X のリスクが完全にヘッジでき、さらにニュメレールのリスクも完全にヘッジできる場合に限ります。MFM では、ニュメレールとして、価格評価対象のキャッシュフロー日で最長の日を期日とするゼロクーポン債が選択されます。この場合、5.1 式をどう理解すればいいでしょうか? ニュメレールとの相対価格で、確率変数 X を求めるとしても、ニュメレール自体が確率変動しているので、将来時点の価格は、満期日以外、特定できません。先ほどの、ランニングマシンに乗った動物をトラックに乗せた場合、一定時間後のトラックの位置が特定できるので、その上に乗っている動物の位置も特手できました。では、そのランニングマシンを、帆船に乗せて、東京からサンフランシスコまで運ぶとしたら、その航路の途中での動物の位置を、どう特定するのでしょうか。というのは、帆船の場合、風向きによってジグザグに進んだりするので、航路上から若干ずれた位置にいる可能性があります。また、天候により、船のスピードもまちまちです。 

その帆船の平均的な航速で、東京からサンフランシスコまで、30 日間かかるとします。すると、今東京を出港すれば、現在の位置と 300日後の位置は特定できます。しかし出港して暫くすると、その位置の特定はだんだん難しくなります。航路の近くにはいるでしょうが、どの程度ずれているのかは判りません。ゼロクーポン債をニュメレールとするのは、まさにこのような状態です。現在価値すなわち現在の市場価格と、償還日の価格 =1 が判っているものの、償還するまで価格がどのように動いていくかは特定できません。 

こういった場合、帆船の平均航速と、ジグザグに進む進行パターンが判っていれば(すなわちニュメレールの確率分布が判っていれば)、一定時間後に居そうな位置(すなわち期待値)は計算できます。あるいは、出港して 20 日後の位置が特定されれば、そこからサンフランシスコまでの大体の進路と到着日は予測できます。従って、その帆船の上に乗っている動物の位置も同様の方法で予測できます。MFMがやろうとしているのは、まさにこのような事です。まずニュメレールの確率分布を特定し、その後、5.1 式を使って、特定の時点における確率変数Xの相対位置(相対価格)を特定します。確率変数Xは、将来のゼロクーポン債価格(要はイールドカーブ)とすれば、将来の任意の時点のイールドカーブが描けます。また、それに依存するデリバティブズ価格も、ニュメレールの相対価格の期待値として計算可能です。 

以上が、
「ある資産価格のニュメレールとの相対価格は、そのニュメレールに対応する測度で計測すると、マルチンゲールになる。」 すなわち  \[ \frac{ X(t)}{N(t)} =E^{Q_N} \left[ \frac{X(T)}{N(T)} \rvert \scr {F}_t\right],~~~~~ t< T \] の意味です。これを理解した上で、MFM の説明に移ります。  

 

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